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書き手としての力のなさを思い知らされる。自分の本が多少話題になったのは『戦争報道』がイラク戦争開戦と同時に刊行された時と、原発事故で『核論』に言及された今の二回しかない。要するに他力本願、それも実際に亡くなる人がいるような惨事あってこそなのだ。戦争で非業の死を強いられるような人がでないようにと思いつつ書いた本が戦争が起きることに因ってしか注目を集められず、原発を巡る社会的選択で弱者が虐げられるようなことがないようにと思って書いた本が他でもない、原発事故でしか注目を浴びない。社会を変えることができなかった言論が、変えられなかった社会の中で注目される構図。安全な東京にいてバクダッドについて語っていることに『戦争報道』を出したときにも違和感を感じていたが、今度も原発のない東京で原発のことを語っている。もちろん取材で現地入りすることとそこを生活の場にすることの間には大きな溝があり、取材者は当事者にはなれない。戦場や、有事の現場報道だけが報道ではない、距離を置いて検証し、批評することの価値はあると信じているが、自分の仕事がその種の仕事として価値あるものであるかは別の話だ。そこで感じるふがいなさの感覚を、せめて次に書くことの糧にする、そんな連鎖の中にいるしかない。
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