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5 月18日の礼拝を行います。
賛美歌を賛美します。差支えのない人はご起立ください。
聖書を読みます。
今回はヨハネによる福音書9章1~3節です。
9:1 さて、イエスは通りすがりに、生まれつき目の見えない人を見かけられた。
9:2 弟子たちがイエスに尋ねた。「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。」
9:3 イエスはお答えになった。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。
3月までお勤めになった木村学長は生命倫理学が専門でしたが、生命倫理学は木村先生の方に法律学の立場から以外にも様々なアプローチができる分野です。
小泉義之さんという哲学者に『生殖の哲学』という著書をあるのですが、そこで小泉さんはクローン技術に自分は賛成だと言います。
え、ちょっとまってよと思う人が多いのではないでしょうか。
スコットランドのロスリン研究所で世界初めての体細胞クローン羊が生まれたのが1996年。その羊はドリーとなづけられました。このドリーの誕生以来、体細胞クローニングという技術は実用可能になりました。もちろん技術的には人間のクローンも作れます。みなさんの身体の細胞ひとつ、皮膚でも毛根でもいいのですが、それをひとつ取って特殊な加工をし、女性の子宮に戻す。そうするとふつうの妊娠と同じように約10ヶ月後には子供が産まれます。その子供は最初に細胞を提供したみなさんと同じ遺伝子をもったみなさんの分身、つまり時間がずれて生まれたみなさんの一卵性双生児のような存在を人工的に創りだすことができます。
こうしたクローン技術は、実用可能にはなりましたが、世界中の国で、人間に対するクローン技術の適用は実験においても禁じられています。人間の命は人工的な技術によってではなく、自然な妊娠出産で生まれるべきだ、そうして生命の尊厳が守られるべきだという生命倫理上の考え方がその背景にあります。
ところが先に紹介した小泉先生はクローン技術は禁止されるべきではなく、どんどん人間に対して採用されるべきだと書く。なぜか。彼の論理は相当に反語的です。みなさんが心配しているようにクローン技術はまだまだ未完成で何が起きるかわからない。しかしだからこそクローン技術は利用されるべきなのだと小泉さんは言う。というのも技術が未完成である以上、それを適用すれば障害者がたくさん生み出されるだろう。それは社会に喜ばしい結果をもたらすだろうと彼は考える。なぜならば障害者が多数派になったとき、初めてひとは障害者を差別することをやめるだろうからだと彼は言います。
確かに自由に歩けるひとのほうが多数だから建物の中には階段を始め、段差が数多くあります。自由に歩けるひとはそうした段差に何の不自由も感じない。ところが足に傷害があって車いすにのっているひとにとっては僅かな段差は、行方にたちはだかる壁のようなものです。しかし車いすにのるひとは少数なので、街は彼らにとって動きやすいようには作られない。
そうした社会の構図を根本的に変えるには障害者が多数決で勝てるようにならないとだめ。だから障害者を増やすクローン技術に自分は賛成だ、小泉さんはそう考えます。この考えかたに果たしてそれは生命倫理学的な思考実験以上の価値があるのか、それを今回は少し考えてみたいとおもいます。
たとえば恵泉では視覚に障害がある高校生をキャンパスに多く迎えてきました。まだまだ過半数には至りませんが、比率で言えば他の大学よりもかなり高い。そうした大学に勤められていることを、私はキリスト教主義大学のあるべき姿だとして誇らしく思っています。
そして最近では聴覚が不自由な学生を大学コミュニティに迎えてもいます。耳が聞こえにくいクラスメートのために代わりにノートを取るノートテイクをして勉強を手伝うボランティアの学生も増えてきました。いいつながりが出来てきたとおもいます。
ただボランティアの人数が十分ではなく、まだまだたいへんです。こうした状況を踏まえて十分な支援体制が整わないのだから、あまり多くの障害者を受け入れるべきではない、そうおっしゃる先生もいます。私はそうした意見を聞くと悲しく感じます。その理由をみなさんと考えてゆきたく思います。
私は先日、授業でビデオ教材を使いました。それは情報リテラシーの授業であり、テレビの見方を学ぶことはシラバスでも予告してありました。しかし新学期が始まってみるとその授業には視覚障害を持った学生が履修してくれており、シラバスを書くときにはそこまで想定していなかったので、テレビの見方を学ぶ授業を予定通り行うべきか、映像資料を用いることはどうかと、私は悩みました。
しかし迷った挙句、敢えて予定通りにしようと思いました。
そう思い切るにあたってひとつのエピソードが参考になりました。
坂田明さんというジャズミュージシャンがいます。彼はボランティアで耳が聞こえないひとたちの施設にゆき、サックスを演奏するのだそうです。おかしな話です。耳が聞こえない相手になぜ演奏をするのか。しかし、彼が心を込めてサックスを吹くと、聞こえないはずなのに、みんな熱心に聞いてくれるし、演奏後は素晴らしい演奏だったといって拍手を送ってくれるのだといいます。
その話を聞いて音楽は耳を経由して届くだけのものではない。演奏者の表情や身振りといった視覚的情報や、息づかいや、からだできざむリズムのような身体情報を通じても伝わる。もっといってしまえば心に直接ひびく音があるのではないでしょうか。
テレビで提供される映像コンテンツだって同じはずです。それは視覚を通じて受け入れられるだけのものではない。映像には音も伴うわけだし、たとえば番組に関する文字資料も出ているし、検索もできる。そうした視覚情報以外の情報を通じて、視覚障害者だって映像コンテンツに触れることはできるはずです。
そして視覚障害者だって、映像コンテンツに関するリテラシーを持たなければならない。それは彼らもまたテレビがある社会に生きているからです。テレビはメディアの中でも最も影響力のあるものになりました。視覚障害者にしても、テレビが影響力を持っている社会の中で生きており、テレビとの関係を否が応にも取らなければならないのですから、テレビメディアとはなんだろうと考える機会を持って欲しい。そう考えて、視覚障がいをもった学生さんにも「テレビの見方」について考える授業に出てもらい、映像資料に彼女に可能なかたちでアプローチして考えてもらうことにしました。
確かに視覚を通じてテレビに接するかどうかという点では、目のみえる学生とそうではない学生との間には違いがある。しかし、それがなんだというのでしょうか。私たちはみなそれぞれに違っている。同じように目がみえたり、耳が聞こえたりすると思っていても、隣の人が何をみて、何を聞いているかなどわかったものではない、同じ物をみたり、聞いたりしている保障などどこにもない。その意味で私たちは限りなくバラバラな、限りなく孤独な存在です。それぞれに違う世界に生きているのであり、そこでは視覚に障害があるかないかの違いなど、私たちは本質的に抱いている違いに比べればほんのわずかな違いにすぎない。
しかし、私たちが限りなくバラバラな存在であり、深い孤独の中にいるからこそ、私たちは誰かと一緒にいたい、何かを共有したいと願うのでしょう。そしていろいろな手段を駆使して少しでも同じものを共有しようとする。
それは同じものを見ている、同じ物を聞いていると勝手に信じて、「わかるよね」「同じだよね」と表面的に口ぶりをあわせて安心するような共感ではない。私たちが同じように心の琴線を震わせられた確かな手応えがあって、私たちは初めて孤独の淵からはいあがって、誰かと一緒にいられたことを深く実感できるのだと思います。
たとえば自分が視覚を通じてみたテレビ番組と、視覚に障害のあるひとが、視覚ではなく、文字情報や音声だけを頼りにして触れたテレビ番組は、ずいぶん違っているように感じられますが、そこから製作者が本当に伝えたいと願った同じメッセージを汲み取った時、視覚に不自由のない学生と、視覚に障がいのある学生は同じテレビ番組と向い合った経験を共有できるはずです。
そうした共有の可能性を信じ合いからこそ、障害者の受け入れに対して消極的な教職員に出会うと私は憤慨して、冒頭に紹介した小泉さんの考え方を借り、いっそ障害持った学生が過半数になったら、先生方も考えを変えてくれるのではないかと思ったりもします。
しかし、実は、クローン技術の未熟さによって街に障害者が増えれば差別がなくなるかといったらそんなことはない。そのときにはまた「自分たちこそ多数派」だと考える人が、その価値観で生活空間を作り、それは自分たちにとっては便利だが、一部の人には非常に暮らしにくい空間になってしまう。そうした暮らしにくい空間で生きることを余儀なくされた人は、なかなかうまく暮らせず、いろいろな支援を必要とするようになる。そして、そういうひとは、再び障害者の名で呼ばれることになるでしょう。つまり初めに障害ありきではない。初めにあるのは多数派が自分たちのやり方が正しいと信じて少数派を差別迫害する構造です。そうした構造が少数派の暮らしにくさを生み出し、暮らしにくい人が障害者と呼ばれる結果になる。そうである以上、特定の障害を持つ人が多数派になっても障害者差別はなくならないでしょう。
こうした障害をめぐる悪循環から恵泉はいち早く逃れる大学になってほしい。簡単なことなのだと思います。私たちは障害があるない以上に、別々の世界に住んでいる。私たちは限りなく孤独な存在であることを自覚すること。そこから経験を共有できることの奇跡的なありがたみが実感できるようにある。そうした共有の喜びは障害の有無をこえて成り立つはずであり、そこでは差別は消失し、障害という言葉自体が輪郭を失って溶けだすのだと信じます。
私が勤め続けたいと思う恵泉は、そうした大学です。恵泉は今でもそこに一番近づいている大学のひとつなのだと思っています。それは障害者支援のスタッフのがんばりに負うところが多いです。そんな恵泉の誇るべき個性をなくさず、むしろ強めて行けるように教職員のみなさんにお願いしたく思っています。
最後に黙祷します。
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