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Here comes the flood

 投稿者:武田徹  投稿日:2011年 9月17日(土)21時02分11秒
  ロバート・フリップがクリムゾンを離れて始めてリリースしたソロアルバム『エクスポージャー』をぼくは浪人時代に聞いたのだと思う。クリムゾン教の熱心な信徒だったので、フリップの新しい音源を待ちかねていた。そして実際にその出来は見事だったと思う。クリムゾンではあり得ないサービス曲も含まれ、一方でフリッパートロニクスもあるという雑多な要素をまとめた雑誌的な作りになっていた。
その中にピーター・ガブリエルのアルバムにも入っているHere comes the floodが入っている。ガブリエルのオリジナルよりも重苦しい感じで、終末の雰囲気があって気に入っていた。
LPレコードでも持っているのだが再生はできない。ジャニスにCDがあったので借りてリッピングして聞いている。原曲から30年近く経って東日本大震災の後に聞いている。
高木仁三郎のノアの洪水に関する考え方を知って、原稿に書いてみた。高木によれば洪水=自然を箱船=技術で乗り越えられると考え、奢らせる危うさがキリスト教にはあったという。それが原発まで一直線に繋がるのだと。津波の洪水と原発事故を目撃していたら高木はどう考えていたのだろうか。
 
 

8/18

 投稿者:武田徹  投稿日:2011年 8月18日(木)16時49分43秒
  カフェで仕事をして疲れると神保町の本屋を回る。買いたい本がたくさんありすぎるのでむしろ諦めも付く。近所なのでまた立ち読みすればいいと思ってしまう。子供のころも毎日本屋に行っては立ち読みばかりしていたなぁと思う。岡林信康の単行本があって、彼が多くの讃美歌を歌えたというエピソードを立ち読みで知るが、これは日本のフォークのルーツのひとつがキリスト教の文脈にあったことをうかがわせる話だ。あと1980年にロンドンに遊びにいって岡林はロバートフリップに会っている。音楽傾向から言うと出会いそうもない二人がそんな出会いがありえてしまうから世界はデタラメで楽しい。
ふーんと思いつつ、ジャニスでフリップの『エクスポージャー』を借りてみた。アナログレコードで持っているのだがMP3化していなかったのでCDをリッピングしてしまった方が楽なのだ。岡林は見つからなかったが、ジャニスにして何か油断の結果だろうか(あとで細野晴臣の友達コーナーにあることがわかった.。確かに初期の岡林の「バックバンドははっぴいえんどなのだ)。見ているコーナーが違うのか。他に借りたのは金森延子『み空』(これも細野が入っている)と自由学園の朝日館で最近行われたアンビエント系現代音楽コンサートのライブ?盤。後者はCDデータベースにタイトルこそあったが曲名リストがない代物。40年ぐらいの時間とジャンルを横断してレンタルできるところがジャニスはすごい。紛失を恐れて、なかなか貸してくれないレア音源もあるようだし、入手が大変だったのでレンタル代金+50円なんてのもあるのだ。

 

8/14

 投稿者:武田徹  投稿日:2011年 8月14日(日)12時16分31秒
  子供の甲状腺被曝が報じられて原発から80km以内の子供には強制避難させるべきだったという声が出る。個人的にもそうすべきだったとは思う。
でもそれはできただろうか。大規模な避難指示が時点で、その仕事を請け負う人をどの程度集められたか。金町の浄水場で僅かな線量が検出されたときの惨めなうろたえぶりを忘れるべきではない。そして避難車両や避難先の手当はできたか。3km以内の避難に関しても、バス会社は特に理由を教えられずに車両の提供をしていたことが先日のNHKNの番組で分かった。それを政府の情報開示責任の不履行と責めるのは易いが、そう単純化できないものも潜んでいる。
子供を避難させなかった責任をいうなら、政府に対してだけでなく、事故が起きてしまった時に避難すらまともにできない社会しか私達は手に入れることができていないという現実を知ろうともせずに原発を「選んできた」私達みんなの責任だ。それを自覚しないで政府を責めているような人こそが、次に何か起きた時に、今回と同じ構図の中で子供たちに被害を及ぼすことを防げない結果に至る責任を負うように思う。
しかし、こんなことを書き続ける不毛な議論はもうやめたい。
 

7/9

 投稿者:武田徹  投稿日:2011年 7月 9日(土)20時05分45秒
編集済
  土曜の午後、朝日ニュースターに出ていろいろ考えた。
たとえば番組内で話題になった上杉隆氏の「プルトニウムは出ている」発言について。司会者は上杉氏がプルトニウムの漏出について早くから指摘していたが、政府やマスメディアはその事実を隠蔽し、上杉氏を黙殺した。しかし結果は上杉の正しさが証明されたと言う。
しかし、この経過で証明されたのは,本当に上杉氏の正しさと政府とマスメディアの隠蔽の事実なのだろうか。
燃料棒の被覆が破れ、おそらく燃料棒が溶けている状態で、燃料に触れた蒸気を含む炉内の空気をベントした以上、プルトニウムが外に出ている可能性は当然ある。それはプルサーマル燃料だけでなく、一般のウラン燃料炉でも原子炉の中でプルが生産されていることを理解していれば容易に想像できることだろう。
しかし、どの程度の量がでるかの判断は難しい。検出下限を超えるかどうか。過去の核実験のフォールアウトと区別できるか。そうした事情次第では事実上プルの漏出はなかったと結論が引かれてしまうかも知れなかった。
「プルトニウムは出ている」発言を最初にした時点で、上杉氏が独自に研究機関への分析依頼などをしてプルを検出していたのか。私は経緯をきちんと追っていたわけではなく、司会者の説明によって時期や経緯などの情報を補っているのだが、その限りでそれは相当難しいとは考えられる。後に結果的に検出された量からして、それは相当に大がかりの、時間をかけた検出作業になるだろうからだ。そうである以上、厳密な意味でエビデンスベイスドな判断があったとは考えにくい。もちろんプルの漏出を予想する科学者への取材はあったかもしれない。その意味では談話レベルでのエビデンスを踏まえていた可能性はあるし、たぶんんそうしていたのだろう(.上杉氏は経験豊富なプロだ)。しかしそれは物証をもって語らしめるスタイルではなく、科学者の予想を踏まえて、彼もまた予想したというのに近かったのではないか。
そうした仮説が正しいとして、その予想はもしかしたら上のように「プルはなかった」と結論づけられる可能性もあり、当たるかどうかわからなかった。しかし彼はプルがやがて検出されることに賭けた。それは、これだけの大事件なので、いつかは相当な微量まで検出する調査が行われ、「プルトニウムはあった」となると考えたからなのかはどうかわからない。しかし、そこまで賭ける時点で考えていたとしたら、なかなかの先見性だと思う。そしてもしその予言が当たれば、一人だけ真実を知っていて東電や政府の公報に逆らっでも真実をを述べ続けていた「正義のジャーナリスト」と世間が思ってくれることまで期待していたのか。それも内面のことゆえに分からないが、もしそうだとしたら相当の戦略家だといえよう。そうだとしたら(仮定法ばかり重ねているが…)、彼は勝ったときの掛金の大きい、しかも勝つ確率の高い賭けを的確に行う、なかなかの賭け手だったことになるわけで、個人的にはそうした賭け手としての能力に単純に敬意を抱く。そして実際、プルはサイト内でも検出され、NHKによってサイト外でも検出され、彼は賭けに勝ったわけだ。
しかしそれはそれとして、その経過をもって「東京電力はプルトニウムを隠し、上杉氏はその隠蔽をくぐり抜けて真実を告発し続けた」と解釈するのはどうか。東京電力と政府、マスメディアは今日はまだ雨は降っていると報告されていないと事実を述べたに過ぎない。上杉氏はなぜか誰もが今日の天気の事実のみを述べ、天気予報をしなくなっている中で、「梅雨だから明日は雨が降る」と確度の高い予想したのに近い。それにもかかわらず、上杉氏だけは真実を知っていたと解釈すること自体が,原発事故でなにがおきているかを理解していない結果ではないか。
もちろん隠蔽はあったかも知れないし、それは究明され、もし問題あれば糾弾されるべきだ。しかしこの隠蔽についても東電と政府がなぜ明日雨が降るかも知れないと言わなかった理由が何かによって意図的かどうか、悪意の産物かどうかが決まる。そうした構図を理解せずに、この一件を短絡的に勧善懲悪的な構図の中で評価すべきではないと思う。

そしてジャーナリズム論の文脈で評価するなら今回のプルトニウム検出がどのような意味を持つかだ。先にも書いたように漏出の可能性は間違いなくあった。問題はその量である。被曝の危険ということではプルトニウムが特別に危険なわけではなく、そこはベクレル数に均して評価されるべきだろう。アルファ線による内部被曝は怖いが、それでもα崩壊する物質はプルだけではない。そうした事情を考慮せずにプルだけを特別視するのがジャーナリズムとして相応しい姿勢かどうかには検討の余地がある。それはきちんとした手続きで調査され,検証されるべきだろう。拙速はむしろジャーナリズムの問題をゆがめる。
しかし番組内では隠蔽が軽々しく話題になるが、それを深める議論にはならなかった。それこそが、たとえば脱原発デモが報道されない問題よりも深いジャーナリズムを巡る問題ではないか、と、そんなことを考えながら違和感をなかなか表明しにくくスタジオで身を固くしていたことを忘れないうちに書いておきたい。
 

6/3

 投稿者:武田徹  投稿日:2011年 6月 4日(土)08時29分1秒
編集済
  6月3日の大学礼拝を始めます。
最初にみなさんと一緒に讃美歌462番を賛美します。差し支えのない方はご起立ください。
聖書をお読みします。今日は申命記28章66から67節です。

あなたの命は危険にさらされ、夜も昼もおびえて、明日の命も信じられなくなる。 あなたは心に恐怖を抱き、その有様を目の当たりにして、朝には、「夕になればよいのに」と願い、夕には、「朝になればよいのに」と願う。


今日はキリスト教と原発と題して話をします。始めに少し違う角度から話し始めてみます。
「風の谷のナウシカ」というアニメ作品があります。1984年に制作された作品ですので、学生のみなさんは公開時の記憶はないかも知れない。でも、何回もテレビで放送され、DVDにもなったのでおそらく多くの人がご覧になっていると思います。

ご覧になった方には改めて説明の必要はないですが、ナウシカの物語の舞台は核戦争が起きたあとの未来の地球です。土は核戦争によって汚染されてしまっているというのは、まるで福島の原発事故後の現状を彷彿させるような設定です。実はこのナウシカの話は、私がこの大学に招いて頂いた最初の年に社会人文学会で話しているのですが、今の状況が更にナウシカの物語に近くなったと言うことで今回改めて同じ話題から入ってみます。

ナウシカの世界では汚染した大地からは植物が生え、茂り、森を作っています。しかしこれは私たちが考えるような森ではなく、中にはおぞましい姿をした凶暴な巨大昆虫が住んでいますし、森の植物は有毒な胞子を周囲に飛散させて人々を苦しめています。

そこで多くの人は森の存在を疎ましく思っているのですが、風の谷という集落のお姫さまのナウシカだけは例外だった。ナウシカは植物が放射線に汚染された大地を浄化しているのだと知っています。だから森と、つまり自然とは共生しないと行けないのだとナウシカは言う。

しかしそんなナウシカの言葉に耳を傾けず、核戦争の時代に使われた巨大な兵器を用いて森を焼こうとする人たちが現れる。森の巨大な昆虫たちは攻撃を受けて怒り狂って暴れだし、風の谷に向かって突進してゆく。このままでは風の谷が破壊されてしまうと考えたナウシカは、昆虫の群れの中に我が身を投げ出します。するとナウシカの気持ちが通じたかのように巨大な昆虫たちは突進を止め、それだけではなく、不思議な力を使って死んだナウシカを蘇らせる。そんな感動的なエンディングになっているのがアニメ版ナウシカでした。

しかしナウシカの物語はそこで終わらなかった。実はナウシカにはアニメ版だけでなく、コミック版があります。当初コミック版はアニメの原作として書かれていたのですが、アニメが完成し,興行的に成功を収めた後も書き継がれて行きます。

なぜだったのか。宮崎駿はある対談でアニメ版ナウシカについて「安っぽいクリスマスの奇跡映画のようなものを作ってしまった後ろめたさがあった」と語っています。彼は何が気に入らなかったのでしょうか。

私達は往々にして清浄な自然を文明が汚しているという二分法で世界を捉えがちです。しかし、それは実はおかしい。たとえば日本人であれば広がる水田の光景に豊かな自然をイメージすることが多いと思いますが、農業自体が文明化された技術の極みです。こうして自然と文明が相互に入り込んでいる事情を理解せず、「汚れなき自然」を理想視しても机上の空論となりかねない。宮崎監督はアニメ版『ナウシカ』が、そうしたありもしない「汚れなき自然」を賛美する物語となってしまったことを恥じ、コミック版でそのリベンジを試みたのだと私は考えています。

というのもコミック版ナウシカはアニメ版の設定を全て覆して行きます。森が担う浄化作用は自然の力ではなく、核戦争前の人類がバイオテクノロジーを利用して仕込んだ文明の技だったことが分かる。まさに自然と見えるものが文明の結果だった。そして人工的に浄化された環境の中で、ナウシカたちは生きられないことも分かった。ナウシカたちの身体は汚染された地球環境に既に順応しており、清浄さに耐えられなくなっていたことも発覚する。

そうした事実が次々に明らかになった後、コミック版の主人公ナウシカはアニメ版からは全く想像できない行動に出ます。核戦争の時代に使われた兵器を用いて、浄化のシステムを生み出し続けている旧人類が残したメカニズムを破壊するのです。こうしてナウシカの物語はアニメ完成からなんと10年後に大団円を迎えます。

このコミック版でナウシカが最後に使った「生命とは汚れることだ」と言う言葉は印象的です。それは既に放射線で汚れてしまった自分たちの命の現実を指すだけのものではなかったと個人的には考えています。

そんなナウシカの言葉と重ねてみたい言葉が私にはあります。第二次大戦で原爆を作り出したアメリカのマンハッタン計画で重要な役割を果たしたオッペンハイマーの言葉です。彼は自分が作り出した原爆がヒロシマに投下された後に「物理学者は罪を知った」と述べました。

彼がそこで使った罪という言葉をどう考えればいいのか。科学技術には二面性があります。技術は人類の生活環境を向上させました。自動車や飛行機は移動能力を飛躍的に高め、医学の進化は病気の苦しみ軽減してきた。しかしその一方で原爆を作り出すのも科学技術です。しかし文明の利器を作りつつ一方で悪魔の兵器を作ることだけが科学技術の二面性なのではない。科学技術は天災をリスクに変えます。雨が降って濡れる。それは天災です。そんな天災に対して人類は傘を発明し、濡れなくてすむようになった。人間が技術を使って環境に働きかけ、生活しやすくした一例です。

しかし、めでたしめでたしとはゆかない。傘を発明してしまった以上、雨に濡れるかどうかは傘を持って出かけるかどうかになる。天災であれば避けられなくても仕方がないと言えるが、傘を発明してしまったせいで、雨に濡れたのは傘を持たずに出かけたのが原因の人災とみなされる。

社会学者のニクラス・ルーマンはこれについて科学技術が天災を人災化すると言いました。つまり人災を増やすのは兵器だけではない。あらゆる科学技術が人災を引き起こす危険性を潜在的に持っている。しかし、ならばそんな科学技術など捨ててしまえと言えるのか。原爆を解体するにも原発事故を処理するにも高度の科学技術が必要となる、科学技術が生み出した災厄を解決するために科学技術を用いなければならない。どこまでも科学技術にまみれて自転車操業を続けなくてはならない宿命を私たちは負ってしまっている。

そんなかたちで人類につきまとう科学技術を開発したことをオッペンハイマーが「物理学者は罪を知った」と表現したのだと考えるならば、その罪とはキリスト教の原罪にも通じる概念なのではないでしょうか。科学技術によって文明の恩恵を受けるのと同時にリスクをも抱え込まざるをえなくなった人類史の起源を、キリスト教の世界観の中で遡れば、それは智恵の実を食べ、楽園を追放されたエピソードに至るのでしょう。智恵は技術を生み、技術をもって人間は自然環境に働きかけ、環境を利用することを可能にしましたが、ついには原発や原爆をも生みだしました。キリスト教の原罪という考え方は科学技術を手にしてついには悲惨な原発事故を引き起こし、その後処理もまた智恵と技術を使わずにはすまされない人間という存在の本質をも説明するものではないかと私は個人的には考えています。

そしてコミック版のナウシカもまたそうした人間の原罪に向き会おうとした作品だったのではないか。たとえば最近はエネルギーシフトの必要性が言われる。太陽光や風力を使えばいいと言われる。これについてもナウシカの風の谷は風の力で発電をしていたのであり、その意味でエネルギーシフトの時代を先駆けている。しかし風の力を使っていたナウシカが、コミック版の最後で自分たちが生き残るために文明の火を使ったのはとても象徴的です。

確かに太陽光や風力は確かに自然の産物ですが、それをエネルギー源として使うこと自体は紛れもない文明の技です。火はダメで風はいいという短絡的な議論は避けるべきだと宮崎監督は言いたかったのではないか。たしかに再生可能エネルギーを利用する方法を選ぶのであれば、その文明の技が、原発がそうだったように後に災厄を私たちにもたらすことがないか調べ、あらかじめ対応しておくことが求められるでしょう。私は再生可能エネルギーの可能性を信じたいとは思いますが、風や太陽光を使うからといって科学技術の原罪から逃れられるわけではない。

もうひとつ、ナウシカが火を使ってでも自分たちが生き残る道を選んだということも重要です。最も大事なのは生きるという目的の成就であり、そこから生きるために何をどう用いれば良いのかという手段が選ばれるべきでしょう。風力発電は汚れなき技術がだからいというのは、そもそも汚れなき技術などないのだから論外ですが、それを差し引いても、手段の議論は目的の議論よりも後に来るべきでしょう。そしてその順番を守った時にそれは汚れることを覚悟したギリギリの決断になるかもしれない。そんなことをナウシカの物語は示しています。

これは私たちの今の在り方に対しても反省を促すものではないでしょうか。私たちは実際に悲惨な状況にある人々の生き死を飛び越えてエネルギーシフトを話題にし過ぎていると感じることもあります。原発の受容史を調べたことがある身としては、その熱狂ぶりが原発受容期の熱狂に似ているのが気になります。ここは手段の議論を拙速に行うのではなく、あくまでも東日本大地震で亡くなられた方々、被災されたかたがたの悲劇に寄り添って、そこから考え始める、そんな必要があるのではないか。そんな思いをこめて東日本大震災で被災された方々への黙祷で礼拝を終わらせたいと思います。
 

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