teacup. [ 掲示板 ] [ 掲示板作成 ] [ 有料掲示板 ] [ ブログ ]

スレッド一覧

他のスレッドを探す  スレッド作成

新着順:1/1110 記事一覧表示 | 《前のページ | 次のページ》

2013.1.17

 投稿者:武田徹  投稿日:2013年 1月17日(木)14時26分6秒
  通報
  昨年末に父を見送ることになった。
元気だった頃の父はこのページを良く見ていて、私が体調不良などと書くものならすぐに心配して電話してきた。こちらは私的なことを書く場合も、それを何かのフックにして不特定多数に語りかけているつもりだったので、近親者を気にして書くのを控えたりする気遣いが面倒で、父の反応を、正直、うっとおしくも思っていた。
その後、ソーシャルメディアのウェイトが増えたり、ネットを読んでいる関係者が増えて、何か書くたびに父以外にも「直撃弾」が多くなって嫌気が指してきてしまったり、色々な理由があったが、更新間隔がだんだんひろがって、そのうち父もいつかチェックをやめたようだ。父にしてみれば、家から離れてしまった息子の近況を知ることができる貴重なメディアだったのであり、父が病期の進行でネットを使えなくなるのはもっとずっと後のことだったので、その意味では私のほうが自分から先に連絡を怠るようになってしまったのだ。父は寂しい思いをしていたのかもと思う。
私が文筆業についたことを父は最後まで心の底では許していなかったと思う。それでも私は生涯文筆家でありたいと考えており、やはり言葉で父を送りたい。で、葬儀の時の挨拶の文章。それこそ近親者に関するところをはぶき、時間が押していたので省略したところを復元したバージョンを、元気だった頃の父が見てくれていたこのページに載せたい。前半は藤原書店「私と311」に書いた内容と一部重なる。私的な生活を守ることが公共性に繋がる、そんな話をそこでは書いた。確かに基本財としての安全安心、そんな考え方に気づかせてくれたのは311という災厄であり、それを育んだのはこの時期に父母と共に暮らした時間だった。


****

本日はお集まりいただきましてありがとうございます。
こうした機会ですので、私事で恐縮ですが、父との思い出話を少しだけさせてください。
私は2011年の3月後半、両親の家で二週間ほど暮らしました。それまでも正月などには実家で過ごすことがありましたが、これほどの長逗留は大学院時代に家を出て一人暮らしを始めて以来のことでしたので実に30年ぶりでした。
それは東日本大震災の結果でした。私は震災の報を妻と春休みを過ごしていた海外で聞き、そのまま海外での仕事に向かった妻と分かれて日本に戻りました。それは高齢の両親が心配だったからです。
東京に戻ったのは3月16日。両親を心配してすぐに実家に行ったのですが、両親は落ち着いていて、父親もこの頃は元気で、昔から器用な人でしたから、大きな余震に備えて梁に材木をあてがって補強したり、計画停電対策として懐中電灯の準備などを淡々とこなしていました。そして心配してきた私のことを気づかって、こいつに何か食わせてやれと母親にいいつける。母親は外に買い出しにゆくのだけれど、流通が混乱していてなかなか思うように買い物ができないことを愚痴っていました。心配して実家にいたつもりでしたが、心配されているのはむしろ私の方でした。
それ以後、天気が良ければ昼間は庭に出て、梅の花を眺めたり、居間で両親とテレビを眺めてくらしていました。その頃ですので、画面に写るのは、福島原発へのヘリによる注水活動の物騒な映像だったするのですが、「今のはうまく入ったな」「今のはだめだ」と父親と茶の間で勝手に採点していました。その時、不謹慎ないいかたになりますが、ああ、これは昔もこんなことをしていたなと思い出しました。今は両親の家の裏に住んで両親の世話を焼いてくれている姉を含めて、昔もテレビの番組を観てあれやこれやと言っていっていたなと思い出しました。高度成長期の平和な時代でした。こうして東日本大震災は、私にとっては40年前の家族の団欒光景を懐かしく思い出させる経験をもたらしてくれたのです。
幸いにして東京でも避難を強いられるような事態にはならず、4月に入って大学も始まったので、私も自分の生活に戻りました。一緒に暮らした春先には家の中の仕事を元気に色々こなしていた父は、夏になって以前から患っていた特発性間質性肺炎、肺線維症が重くなって、酸素ボンベから酸素を吸うようになります。こうして酸素を補うことには無理があったのか、あるいは症状が進んだのか、だんだんに元気がなくなり、昼間でもよく眠っているようになりました。元気を出してもらおうと興味のありそうな本を買っていっても、頁をめくることなく脇に置いてしまうようになってきました。日常生活はなんとかこなしていましたがそれ以外に気力を出す余裕がもはやなくなっていたようでした。
そして9月に症状が悪化し、近所の病院に緊急入院しました。当初はかなり危ぶまれる状態だったのですが、処方されたステロイド剤がおそらく肺の炎症を抑えてくれたのだと思います。入院してまもなくすると驚くほど意識がはっきりして、元気になりました。病室に見舞いにゆくと、リハビリのための屈伸運動をせっせとしていることもありました。元気だった頃の父に少しだけ戻ったようで家族は本当に嬉しく思っていました。
そして10月末の退院後も、入院前とは違って自分で色々しようとしていました。うまくはできなかったようですがパソコンを相手に、自分の健康状態の数値――血圧やら酸素の量やらを入力作業しようとする姿も久しぶりにみました。
しかし、この時の元気は、ステロイドがくれた生命のボーナスのようなもので、12月25日の日、出かけていたデイケア施設で、再び急に体調が悪化し、緊急入院しました。夜の間に、一時は持ち直して、また家に帰れるとかもしれないと一度は期待もしたのですが、結局、26日の明け方に帰らぬ人になりました。

生前の父は、根っからの技術者だったことに加えて、英語も得意で、何度か長期の海外出張をしています。同じ世代の男性では珍しいとおもいますが楽譜も読めたし、楽器も多少弾けた。牧師にオルガンの手ほどきを受けたとか聞いたことがあります。そんな父の資質や傾向を受け継いだのは私の姉で、大学は工学部に進みましたし、英語も達者でしたし、ピアノも長く習っていました。
私の方は文系でしたし、父にしてみればずいぶん甲斐性のない息子だと思っていたはずです。特に、大学を終えた後に、独立した物書きになってしまったことで、きちんと会社勤めをしていた父はそれがおよそまともな職業だとは思えなかっただろし、そのことでひどく心配を掛けたと思います。私自身も、今だからこそ告白しますと、もしも今日のような日が来た時に、一人で物書きの仕事をしていると参列の方が少なくて父に寂しい思いをさせてしまうのではないかと、それが一番父に申し訳ないと思うことでした。後に私が大学で教えるようになるのは、組織に所属すれば賑やかに父を送れるのではないかと思ったことが実は大きかったのです。
しかし、今回は、家族と親しい親戚のみなさんだけにお集まりいただくことになりました。それが父の心からの願いだったようで、母も父の思いを叶えたいと申しますので、こうした葬儀のかたちになりました。
父は筋金入りの合理主義者で、儀式的なものを重視する方ではなく、華美に偏りものを軽蔑していましたし、おそらく一番の理由としては葬儀で家族に負担をかけたくないと思ったのだと思います。最後に入院した時も、自分のことよりも家族のことばかり心配していました。自分のことは脇において、いつも周りの人のことを心配して気遣ってばかりいた父は、最後の時までその通りの人でした。このことはできそうでできないことだと思い、私は父を誇りに思っています。家族にしてみればもう少し生きて欲しかったのですが、肺線維症は診断後平均余命4-5年だと医師に聞きました。それにくらべれば倍以上生きてくれたわけですし、最後の最後に入院する直前まで自分の身の回りのことは自分でしようとしていたし、実際にそれができていたわけで、勇ましいことをいう人ではありませんでしたが、強い人だったと思います。
そんな父ですので、葬儀も家族に負担のないようにと考えてくれていたのだと思います。しかしそれだけではなく、昨夜のお通夜では、母が、自分が嫁いできた頃のことを叔父や叔母と一緒に懐かしそうに話していて、大人数の葬儀ではこんなにゆっくりは話せなかったでしょうから、父はこうして静かに語り合いながら送って欲しかったのだろうなと思いました。先ほど申したように葬儀を賑やかにしたいと私は思っていたのですが、大事な人に静かに送られることこそが、本当にいい葬儀なのだと、この期におよんで父に教わった思いがしています。
父の思い出は数え切りなくあります。そんな思い出を私達、家族は折にふれ思い出し、その時には気づかなかったことを、これからも父から学ぶことになるのでしょう。

今日は本当にお忙しいなか、お寒い中、ご参集いただき、ありがとうございました。
 
 
》記事一覧表示

新着順:1/1110 《前のページ | 次のページ》
/1110