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12・31

 投稿者:武田徹  投稿日:2011年12月31日(土)22時04分23秒
編集済
  2011年も終わる。
年賀状のかなりの部分をメールで済ませるようになって一年の間に新しくメールをいただいたかたのアドレスを過去に遡って拾ってゆく。ああ、こんなこともあったなと、既に失われかけていた記憶が蘇る。もらいっぱなしになっていた依頼のメールを発見してももう後の祭りだ。
メールでも歴然だ。あの日を境に本数が激変している。刻々と状況を教えてくれる記者の人とイスタンブールからやりとりしたメールもあって生々しい。事故があってからにわか原発通になったかのような市民運動家が多くて幻滅したが、ぼくは原子力を取材していた経験があったので全電源喪失と冷却水喪失が何を招くか、ありえるその結果の「幅」についてある程度予想できていた。で、もっとひどいことになることも覚悟しつつ、それでもイスタンブールから帰ってきたのだ、2号機の格納容器の圧が抜けた朝に。『核論』の作者の責任として帰らなければならないと思ったし、両親と学生たちと元学生のためにも、ね。『私たちはー』の増補部分にまとめてもらったことに嘘はない。その頃の気持ちを書き残しているメールもあって読み返して今更ながらいろんな思いがよぎる。
当時繰り返されていた枝野官房の「ただちに健康に被害はない」は悪評高いが、「ただちに」が意味を持つ時間スケールの中で、事故に対応できる社会インフラを守りつつ、リスク総量をできるだけ減らしながら、もしももっと危ない側に触れて「ただちに影響が出る」危険が生じたときにはそれに対応できる体制が取れないものかと思い、既にあまり頼りにならない感じだったが東電の出している原子炉や格納容器の圧と温度をチェックしながら原稿を書いたり、大学の公式ツイッターで学生向けの情報を出したりしていた。もし国民の多くがもっと原子力災害について知っていたら、心と避難の準備ができていれば、全く違う戦略もありえただろう。しかし残念ながらその備えはなかったのだ。メールのやりとりを見て、改めて記事を次々に依頼に応えて書いていた当時のことを思い出す。そこまで粉骨砕身がんばっても、『核論』刊行当初よりは多少は影響力も持てたかもしれないが、微々たるものでしかなかったが。
避難方式について大学で議論になった3月末の時点で、これからは積分線量が問題になる、そうメールで書いていた。案の定、その後、状況は変わる。「放射線が来る」と不安を煽ってあんなに不評だったAERAの表紙すら実は正しかったと見直す人が出て来る始末だ。これも「ただちに」問題のヴァリエイションだろう。かつては、一度制御を失えばとんでもないことになる原発を受け入れつつ、「ただちに」事故は起きないだろうと根拠無く信じて安心して暮らしていたのが、事故を契機にそうもいかなくなり、積分して影響を検討すべき線量に対しても危険につながるから「ただちに」避けるべきだと言い始める。確かに不安を避けられるならそれにこしたことはないのだけれど、その際に考えて置かなければならないことも…という議論を省略しようする大きな変化のうねりのなかで、新しい言論戦をはじめなければならないと思っていた頃、腰を痛めて一時撤退を余儀なくされたが、新年からは心機一転がんばらなければ。
 

クリスマス

 投稿者:武田徹  投稿日:2011年12月24日(土)17時03分12秒
  大杉栄と辻潤の原稿を書きはじめる。商業媒体用としては今年最後(。長めのでは。短いのはもしかしてまだあったかも。あと大学の広報系のものが何本か…)。311以後の社会へ向けての言論戦も自分の使命だと考えてきたが、一方でもっと長い時間スケールの中で社会を考えることもしておきたく、原発以外の仕事はあえて断らない主義でやってきた。おかげで仕事量が単純計算で倍になってしまった。大学の仕事もポスト311モードというか2012年度の特需的なものと、通常モードのものがあり、ここも仕事量が倍(以上だったかも)。その結果が積もり積もって腰に来たのだろう。昨日はがんばって名古屋出張したが今日は無理がたたってちょっと症状がぶり返したかも。午前中は執筆に出られたが、午後は家で寝転がって書いたり資料を読んだりしかできなかった。クリスマスに幸福に過ごす資格なんかとてもないので悪く無いと思う。毎年そうだが、こんな年ももちろん今年限りだ。  

経過

 投稿者:武田徹  投稿日:2011年12月22日(木)10時08分24秒
編集済
  通常の授業は腰痛があってもできるので、懸念があったのは入場行進をしたり、礼拝劇の間で立ったり座ったりがある昨日のクリスマス礼拝のコーラスだったのだが、なんとか無事にこなす。
で、次の懸念は明日の中京テレビの収録。名古屋まで移動があるし。しかしだんだん分かってきたのはたかが痛みだということだ。救急で感じたけれど痛いということは生きていることの記号表現なのであり、むしろ痛みを通じて生を実感すべきなのだ。痛みこそ生の証(ちょっと詭弁w)。そう考えが転換できるかどうかが、年齢的に一段上のステージに移ってなお前向きでいられるかどうかの分かれ道のようにも思う。
クリスマス礼拝の教職員コーラス隊は天使隊という名称なのだが、今年は傷だらけの天使、になってしまった。でももう慢性化している傷を持った天使も他にきっといたはずだ。
 

この一週間におきたこと

 投稿者:武田徹  投稿日:2011年12月13日(火)21時24分18秒
  先週の月曜朝に発生した左背中から腰にかけての痛みはどんどん強まり、近所の病院にゆこうとしても玄関先まで歩くのがやっと。連れに近所の病院と交渉して車椅子を借りてきてもらったがその頃になるとイスに座ることすら痛くてできなくなってしまった。これはもはやしょうがないということで救急車を呼ぶ。順天堂医院に搬送され、救急救命セクションで処置を受けた。最初は病院も自分も結石を疑っていたが、まずエコーで見てその可能性は少なそうだという。CTを撮って内臓に、レントゲンを撮って、背骨にも観察可能な範囲では大きな異常がないことがわかり、腰と背中の筋肉の炎症ではないかと言われる。ただその時点でもまた動けない。レントゲンを撮るために台に乗り移るときにも腕力で身体をひきずってようやく移動するが激痛で顔がゆがむ。検尿もトイレに自分でいってするなんてとんでもない。ベットで横になったままさせてもらい、血尿がないことで結石は本格的になし。ようやく鎮痛剤の座薬を入れてもらえる。時間がたつと効いてきて少しだけ落ち着いたが、それでもまだ立つのは無理。入院も考えたが、結局、夕方まで休ませてもらったあと、車椅子で病院玄関まで押してもらい、タクシーで自宅に帰った。
はじめて救急で病院にかつぎこまれて検査とか治療を受けたが、ERは痛みを相手にするセクションではないのだなと分かった。ここでは痛いってことは生きているという良い証拠なのだ。
月曜は帰宅したがほぼ寝たきり、火曜はようやく部屋のなかで壁づたいに歩けるようになった。水曜、木曜は大学でどうしても外せない用事があり、座薬を入れてタクシーで出勤。金がかかるかかる。上半身は問題ないので寝っ転がってメールを書いている分には普段通りコニュニケーションがとれる。メールでやりとりして元気だと思っていた人が直接あってみたらこちらが歩けない惨状になっていて驚かれやら呆れられるやら。
やがて腰も痛いが、次第に腿や足の付根のほうが痛かったり、しびれたりするようになってきた。いったいどうなっているのかね。木曜に外来で診察を受けたので、そのことを話すと腰痛ではそういうこともあるのだとか。見るからにヘルニアがなっているような状態でない場合に、神経が圧迫されているかどうかはCTやレントゲンでは精度が低くてわからず、MRIでないと確認できないのだそうだ。
金土曜は北大出張があったのだがキャンセル。申し訳ない。
徐々にかろうじて直立歩行できるようになってきた。ネアンデルタール人みたいだ。
立てるようになると、ずっとタクシーではたまらないので、週明けの月曜からは徐々に地下鉄駅まで歩き、電車の移動を組み合わせるようになってきたが。歩く速度が遅いのでちょっとした移動でもえらく時間がかかる。こんな状態になる前に受けたインタビューをまとめたゲラが出てきて、原発事故後の節電で駅のエレベータをとめたことを問題視して語っている自分と出会う。今はエレベータが動いているのでゆっくりとはいえ移動できるが、節電の頃、今の症状だったらぼくはどこにも移動できなかっただろう。
今日の火曜の午後も電車とタクシーを乗り継ぎ、駅ではエレベータを使って縦移動しつつ出勤。確かF1では前年チャンピオンチームが一番ピットレーン入り口から近い場所にパドックを与えられる(故障したときにもたどりつきやすい)。ぼくの研究室も優勝したわけではないが、教授会室や講師室から一番近い場所にあるのだが、それでも歩くのが遅いので僅かの距離なのになかなか到着しない。のそのそ学内を移動しつつ仕事を少しだけして帰り道はなるとさすがに痛みが蓄積し、しんどい。ようやく家に帰って、一人で唸り声を上げて痛みをごまかす。
ぼくはホブソンズから957歩歩くことで物書き仕事を始めたのだが、このまま歩けなくなってしまったらどうしようかと思う。まだまだ取材して歩きたい場所はたくさんあるのに。もちろん弱気になリ過ぎているのは自分でも分かっているが、それでも完調になるまではいろいろ不安になるもののようだ。回復したら歩く力をもっと大事にしようと誓う。
 

合意形成は彼方に

 投稿者:武田徹  投稿日:2011年12月 4日(日)08時52分21秒
  言語学者のチョムスキーを追ったドキュメンタリー『マニュファクチュアリング・コンセント』という作品がある。今はDVD化されたのを教材にも使えるかなと持っているが、最初に見たのは有志の手による上映会でだった。
映画の中でチョムスキーは語り続ける。ありとあらゆる場面で言語の自由が、いかに大事か主張し続ける。テレビにコメンテイターとして登場し、短く、洒落たコメントをいうことを求められても、自説を論理的に滔々と語り、話が終わる前に番組が終る。どこでも、どんな場面でも持論を曲げることなく、たとえば「ホロコーストがなかった」というリヴィジョナリストの発言を封じる処置を取った国を、言論の自由を制約したということで堂々と批判する。自分だってユダヤ系なのに。それはリヴィジョナリストの活動を許すバックラッシュに加担することだと再批判を受けるが、それでもめげない。
そんなコミュニケーション原理主義を貫くチョムスキーを、時にシリアスに、時にユーモラスに追ってゆく、ドキュメンタリーをみて、たいへんな人生だなと思いつつも、敬意を覚えた。話せば分かると彼は信じてその可能性に賭ける(マニュファクチュアリングコンセントとは合意の形成だ)。変形生成文法を普遍文法として提示したのは。人間という種は深層では理解可能性を持つという信念からだったのだろう。そんなこと何の保証もないのだがとにかくそれに賭けてみる。変形生成文法のそうした賭け=企投的性格が、言語理論だけおっていた大学時代にはわからなかったが、このドキュメンタリーを見て分かったように思った。
そんなことを思い出したのは、巡り巡って自分がどこかチョムスキー的な役回りを担い始めているからだ。3・11の原発事故があのようなかたちで起きてしまうことを防げなかったことは、自分の『核論』の言論としての力が足りなかったからだと考え、「今度こそ」の思いで増補版をあらためて出してもらったし、『原発報道とメディア』も出した。ある時期からは講演や放送媒体出演もできるだけ断らないようにしてきた。言論戦実行中だ。
昨日も学会の特別報告コーナーに出た。しかし、壇上に出て、例の囚人のジレンマ論を話すと、反原発運動家や原子力推進政策に反発を感じて来たひとから反発を受ける。反原発運動が原発事故をもたらしたとは何事か。国と市民では力が違うではないか等々と本当に毎度毎度同じ繰り返し。そこで自分の考え方を、かなり実証的に説明しても話は平行線だ。でも、それでもまたどこかで話す。
そんな経験を続けながら、昨日、「ああ、そうかチョムスキーもこうしていたんだな」と思った。偉大な言語学者と比べてしまうのもおこがましいが、語り続ける継続にこだわる愚直さに関して少なくとも通じるところはあると思う。昨日はマスメディアはシステムの名称であり、ジャーナリズムは行為の名称だとも話した。原発を巡る歴史の膠着性を集塵のジレンマとして語り、そこから脱却する可能性を弱者の発見に基づく可謬主義的訂正のプロセスの中に見出し、さらにマスメディアシステムとソーシャルメディアシステムの接続を語る。そうした語りや方向づけこそがジャーナリズムという行為なのだ、ジャーナリストも話せば分かると信じることでしか成り立たない仕事だろう。ちょっと近代主義者的な古臭さも感じないではないが、そんな行為にしばらくはこだわっていたい。この事故を、こんなかたちで起こすこと防げなかった一人としての責任を果たすために、そんなことを今は考えている。
 

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