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京島とハルキ島

 投稿者:武田徹  投稿日:2009年 6月23日(火)16時02分26秒
編集済
  月曜、午前中、京成電鉄取材。押上駅から歩く道程な新東京タワー建設のために工事中でエリアをつっきる仮の連絡通路になっていた。まだ新タワーは影も形もなかったが、やがて立ち上がってゆくのだろう。三丁目の夕日の21世紀版だ。
隣の京島はマスクメロンの皺のような路地を訪ねて取材したことがあったが。ここは初めて来たような気がしていたが、本社屋をみて思い出した、前に御厨先生と東京私鉄特集の『東京人』を作った時に取材に来ている。今回は36分で空港までの新スカイライナーと上野公園地下のカーブの話。
東日本橋駅と馬喰横山駅の乗り換えの道すがらカフェドクリエで昼を食べ、午後、読書会に大学に向かう。前回宿題になっていたゲーデルの話をしてデリダ。夕方からは編集者と食事。見捨てずにいてくれてありがたいことです。料理屋を出て、壁に埋まっている階段を発見した。階段だったところが外から板を打ち付けられ階段状の模様になっている。トマソン物件である。
火曜は終日原稿。家の周辺で済ませようと思い、まずスタバ。橋口さんが打ち合わせ中で、相変わらずだなと思う。自分も前はここでずいぶんあがく仕事をしていたのだ。しかし午前中仕事をし続けて電池がなくなってきたタイミングで少し頭を休めたくなった事情もあって、特に講義も学生に会う約束もなかったが、午後から大学にまた出る。電車に乗っている間に頭を冷やし、大学では充電しながら仕事をし、印刷してそれをみながら帰るパターンだ。
今週は原稿を四本仕上げなければならない週で、月火と結構がんばってきたが、水曜日からは相当時間拘束されるので、今のペースだと、たぶん四本目は来週になってしまうと思う。いつも仕事ができていないなぁとコンプレックスを持っているのだが、現実的にはけっこう忙しい。まともな仕事が出来ていないと感じてしまう体感的な不足感と実際の自転車操業ぶりとのギャップの大きさはなにか原因があるのだろうか。
四本のうち1本は例の『1Q84』論で、おかげで過去の村上作品を再読しなければならないはめに陥った。再読といっても、実はある言葉を追ってページを手繰っている。ロードス島の近くにハルキ島があるらしいが、やはり島に関すること。電子データ化されていれば検索がかけられるのにと思う。グーグルブックサーチはもしもうまく動き始めれば、そして評論の対象になりやすい動いている本もそのデータベースにおさめられるというおよそありえないことが実現すれば、こんなときにも有り難いはずだ。しかしそれはありえないので紙の本を再読。手元にないものもあるので、買い足したり、図書館で借りたり。おかげさまで『1Q84』は送って貰えたが、当然、早くも赤字である(笑)
 

金と土

 投稿者:武田徹  投稿日:2009年 6月20日(土)12時50分29秒
  金曜日ひさしぶりにビデオニュース。グーグルブックサーチ。宮台さんは出版社から和解期限を伝える手紙が来たときに、自分の著作がデジタル化されていないか調べたらしい。ぼくは基本的にデジタル化はオッケ−だし、実際に流通していない書籍が多く、おそらく出版社にも被害はないだろうから、和解しようとすぐに決断したためそこまで調べなかった。専門家の話を聞いて予感がおよそ間違っていなかったことを感じる。ただケースバイケースだろう。この種のプロジェクトに正義が一律にあるわけではない。
土曜日ひさしぶりに東大本郷、原子力関係のワークショップのパネル。疲れが蓄積していてどこか眠い。そういえば生命倫理会議は代表者ほか検討するも)衆議院ではA案通過。記者会見をしたようだが、それは会議で欠席。記者会見もそうだが、私自身は一回だけ打ち合わせにでて議員へのFAX送信を少し手伝っただけで不完全燃焼に終わる、これを機会に臓器移植も少し考えてみようと思う。
技術が進歩した結果、今まで出来なかったから考えないで済んでいた問題が倫理的な問題として浮上することが多くある。考えてみれば、核論を含めて自分のしてきた仕事の多くの部分がそうして新規に出現する領域だったようにも思う。
 

 投稿者:武田徹  投稿日:2009年 6月16日(火)00時18分27秒
編集済
  話題作になってからはむしろ読まないことでプライドを保持しようとするアマノジャクゆえにもう『1Q84』はしばらく読まないんだろうなと思っていたが、なんと送ってくださる有り難い方が現れた。おかげでまだ話題としてホットな内に買わずに入手できたが、原稿を書く義務が付帯されている。忙しかったのだが、他の原稿執筆を中断して、生命倫理会議の会合に出かけた土曜日の電車に中で読み始めて、日曜午前中に読了。オーウェルと絡めて書こうと思ったがそれは不可能であることが確認された。
その後、午後から高校一年生のクラス会出席。普通高なのだが、クラス会というより音楽会で、ヤナーチェックの『シンフォニエッタ』はなかったけれどメンデルスゾーンのピアノ三重奏あり、同じくメンデルスゾーンのクラリネット独奏あり、イタリア歌曲独唱ありの出し物氾濫で、最後は全員で混声四部合唱で締めるという、この芸達者な高校生活が我がルーツのの一つだったことを改めて再確認。楽譜読める率が異常に高い。旧第三学区(杉並、中野、練馬区)の親たちは子どもにピアノやバイオリンを習わせる流行でもあったのだろうか。
月曜日、講義会議はなかったが読書会のために大学に。二週間、仕事の合間を縫って続けてきたゲーデル研究?の成果を学生相手に披露する。不完全性定理がなんたるかが分からないと東浩紀がいうゲーデル的不決定とデリダ的不決定の違いの説明が適当かどうかわからなくてすっきりしないのだ。で、多くの本やWEBの中から一番分かりやすそうな(つまり入門用に相当にはしょっている)ものを教材に引いてきて説明したが、それでも不完全性理論の証明過程の1箇所が説明しきれなかった。大学時代に論理演算とか集合算は結構やったのだが、もう忘れてしまっていて基本的なところでつっかえてしまう。悔しい。漢文は大学受験までやって博士課程で再開し、ブランクに苦しめられたが、論理演算は大学時代から今にいたるブランクなのでこれはもう思い出せるレベルにはないだろう。楽器と違って身体で覚えているようなものの対極にある抽象的な技術だし。
 

ゲーデル

 投稿者:武田徹  投稿日:2009年 6月10日(水)15時43分30秒
編集済
  東浩紀がゲーデル的脱構築とデリダ的脱構築などと対立させたために、デリダ理解にゲーデル理解を選考させる必要があって、今更ながらに不完全性定理を少しでも理解しようと奮闘している。カントールやラッセルを経て、ヒルベルト計画を反古にしてみせたその数学史、思想的な価値は理解しているつもりなのだが、どうやって不完全性を証明したかの実際は、過去から何冊も解説書を読んだがいっこうに分からない。ぼくは文系にしては論理演算はわかるほうだと思うのだが手が出ないで来た。簡単に分かるようだったら困るけれど。ちなみに現代思想のゲーデル特集臨時増刊の野崎先生の「文系より読者を想定した」解説は見事に論証の手続きが省略されていて、完全性定理と不完全性定理を表に収めて完全性や無矛盾性の概念を比較させるだけに終わっている。文明より読者に説明しても無駄だろう、という感じか。林普の『ゲーデルの謎を解く』は奇妙な空想機械を登場させて比喩的に解説しようとしているのだが、何が解説されているのかも分からない、世紀の奇書的な印象のものに終わっている。林さんが悪いのではなくて、相手が手強すぎるのだろうか。
東は分かって書いているのだろうか。それとも思想的な位置づけで引いているだけなのだろうか。証明の手続きまで分かっていたら心の底から尊敬する。東はデリダの精読で柄谷のデリダ理解の底の浅さを、本人に気付かれない密かな毒をこめて『存在論的、郵便的』で示したが、そのうち数学もわかってデリダも分かる学者が登場したら東のゲーデル理解の底の浅さを指摘したりするのではないか。
 

記録

 投稿者:武田徹  投稿日:2009年 6月 8日(月)06時46分12秒
  土日を含む連続大学出勤記録の更新がようやく途絶えた日曜日は、家族と法事で東京郊外の祖父母の墓地に出かけた。法政大学の多摩キャンパス校舎が遠望できて懐かしくもあり、いわくいいがたい気持ちになる。法政に非常勤で通っていた30代後半から40代の時期は自分の人生のひとつのピークだったのだろう。時期的には核論を書きあぐねていたのだが、そのプロセスに得るものも多くあったことに改めて気付く。
早めの午後に戻り、実家で昼寝。久しぶりに晴れて暑い日の墓参だったし、早朝に出てずっと運転していた疲れたのもあったのだろう、よく眠れた。子どもの頃、夏の午後にした昼寝を思い出す。なにか夢をみて起きたとき、ここ数週間の疲れも取れたような気がした。核論の延長上に依頼していただいたシンポジウムへの参加など、幾つもの件を同時に考えていて、しかしどれも見通しが立たずに悶々としていたが、なんとなく視界が開けた印象がある。気のせいなのだろうけれど。
月曜日は秋田出張。大学に出勤しない連続日数2日目で記録更新中(笑)。現地でレンタカーに乗るので羽田まではバスにした。バスの窓から羽田にペットホテルがあるのを発見する。前だったらこんなものもどこかの媒体で取材していたのかも知れない。新規サービスや新商品自体は儚く消える泡のようなものだ。しかしそんな刹那のさざを丁寧に見て回ることが大事だったことにも改めて気付く。
栗本慎一郎が脳溢血になる前にはなぜか昔のことを思い出すと書いていたので注意したい。
 

北の核2

 投稿者:武田徹  投稿日:2009年 5月31日(日)08時28分4秒
  北朝鮮の核実験は空中浮遊放射性物質の解析報告もないままに公然の事実と化してしまったが、そうだとして良かったのは、それがナガサキ級だったことだ。ナガサキ級であれば重く大きすぎて核弾頭化は出来ない。テポドン2には乗らない。その意味では06年の爆発力の小さい原爆の方が実は脅威だったのだ。計算通り小型原爆が作れ、核実験では予定通りの小爆発力を発揮させられていたのであれば、それは核弾頭化できていたかもしれない。しかしだとすれば改めてナガサキ級の実験をする必要はないのでやはり前回の失敗だったのだろう。
そうしたリアリティを踏まえてようやく自民の中でやはり出てきた「北の核基地先制攻撃論」をあっとうに議論する足場ができる。
核実験をやることを知りながら無為にまかせたのはアメリカは中国を国際世論の中で孤立させたかったのか。
北朝鮮動向とは全く関係なく、この週末に学園祭+オープンキャンパス開催の大学では空模様が話題だ。前日に準備を夜遅くまで手伝ったし、2日目にはまだフル出勤になるので中日の一日目は午後早めに撤退。帰路に東大先端研のオープンキャンパスに立ち寄ってみる。学生も教職員も違う人種だ。
夜、資料用にYoutube画像を落とそうとおもったらできなくなっていた。今までも何度となくダウンロード不能になって、サイト側で対応するやりとりがあったが、そろそろさすがにダメっぽい感が漂う。著作権法改定で違法になるまえに技術的に対策されてしまえばダウンロードなど不可能になる。レッシグや東浩紀が指摘していた現実はもはや日常の光景としてある。民主的手続きを超越した「技術の暴走」ということではこれも一例ではないかと思うけれど、一方で著作権概念を誤解しているコピーライト原理主義者がいてこの分野では議論そのものが難しい。
 

北の核

 投稿者:武田徹  投稿日:2009年 5月26日(火)07時22分53秒
編集済
  北朝鮮の核実験に対して爆発力が前回の4倍、ナガサキ級と言われている。前回は実験前から送電線の敷設や、車両の動きから実験が予告されていたのに、今回それがなかったのはなぜかとか、安保理まで動きつつあるのに、空気中の核物質捕捉はどうなっているのかとかには疑問はあるが、とりあえず核実験がったとする現時点での報道を信じるなら、推測できることもある。前回実験の異例の小さな爆発力に関して北朝鮮は小型の核爆弾を作れると報じた論壇誌があったが、それは間違いでおそらく前回の実験では爆縮がうまくゆかずに部分爆発してしまったために爆発力が小さかった。それが今回「普通に」ようやく成功したと考えるべきだろう。長崎に落とされた原爆は、史上初のプルトニウム使用の原爆として、最も着実な設計で作られた。そのサイズの爆発があったということは、ようやく北朝鮮の核開発力が60年前のアメリカにおいついたということだと考えるべきなのではないか。
オバマの登場でもしかしたら世界が相互核抑止の「厚着」を少し脱げるかも知れないと期待が持てた時期に、核保持国に名乗り出ようとすることはもちろんとても困ったことだが、今後の外交(を背景で支える世論形成上)方針をポピュリズム政治の側からミスリードしないために、少なくとも「4倍」、「ナガサキ級」の言葉が北朝鮮の核技術を過大評価?することに繋がるべきではないと思う。核とは一種の情報兵器であり、リアリズムで語ることが難しいことはいうまでもないのだが。
幸福の科学の新党設立は、話題性に流れるマスメディアの関わりも含めてどんな影響を総選挙に与えるのだろう。その党に票が集まるかということよりむしろ、それ以外の党への投票行動にどのように影響するか。オウムの真理党設立の時にどうだったか分析してみるといいのかもしれない。
 

サリドマイド

 投稿者:武田徹  投稿日:2009年 5月18日(月)21時20分38秒
   原稿があるので各所のマック。少し離れた席に座っていた男性紳士の動き方がおかしいので、よくみると上肢が短く、それをカバーしながらケータイ電話を使っているからだった。サリドマイド・・・・という言葉が思い浮かび、その紳士がそうとは確証がもちろんないものの、かつてのサリドマイド児はいま何歳ぐらいになったのかと思ってネット検索してみた。すると自分と同じか少し若い世代にサリドマイド製催眠薬の回収が遅れた犠牲者が出たことがわかる(最多発生は62年)。サリドマイド児のことは聞いていたし、街で見掛ける機会も何度もあったが、自分の近くにいなかったので違う世代だと思いこんでいた。確かに上か下かというと応えられない。根拠もなしにただ自分(の世代)のことだとは思わなかったのだ。
 サリドマイドは、その事件があったために使いにくくなってしまったが、皮膚障害の軽減にうまくつかうと重宝するのだと前にハンセン病療養所の医師が話していたのを聞いたことがある。調べてみると抗ガン剤にもなるらしい。ステロイドのように何で聞くのかわからないのではなく、毛細血管の生成を疎外するのだとか。催奇性の原因になったのと同じ性格が、使い方次第では効能になる。それを聞いたときにも自分の世代だとは思わなかった。
 ということは、もしも薬害の被害をうけたひとだとするとその紳士は私と同じ年齢か少し若いぐらいの可能性が高いのだが、上肢の障碍を除けば上品なスーツを着込んだお洒落な初老の紳士だった。年齢的にはまさに事件の頃に生まれたひとなのかもしれない。というか自分たちの世代は外見はこんな感じで普通なのであり、強もTシャツにカーゴパンツで大学に行って浮いていることに気付いて帰ってきてしまったのだが、そんな自分の方がおかしいのだ。
 ある日、鏡を見たら知らない老人がこっちをみていたというのは老いの発見についての小林章太郎氏のエッセーの一部分だが、元サリドマイド児だったかもしれない初老の紳士が自分の年齢に思い至らせさせる。
 原稿は8本中2本入稿し、3本は一応書き終えて推敲に。予想より早いペースで書けている。残り3本の内一本は締め切りを延ばしてもらったのであと2本。ただ今日のように終日原稿にかかれる日はもうないので推敲分を入れるとギリギリだろう。
 

タッシ

 投稿者:武田徹  投稿日:2009年 5月17日(日)10時18分31秒
編集済
  来週は一本ずつの分量こそ少ないが、締め切り数のやたら多い(8本?)殺人的なスケジュールになりそうなので山梨に退避し、前倒しで書こうと思ったが、事務的なメールのことが気になって集中できず焦る。
あまり良い傾向ではないのかもしれないが、短い記事が多くなって、時間を分割してひとつずる仕上げてゆくことが前よりも得意になった。たぶんフリーの時代に小さな記事を大量にこなしていたひとは早い時期にできるようになっていたことなのだろうが、その意味では成熟の遅かった自分はいまさら職人的なライターになれたのかと思っている。ただ頭の中で継続審議中の問題が残るとうまくゆかないのはまだまだ職人失格か。
こういうときには音楽が頼りで、Tashiの演奏するメシアン『世の終わりのための四重奏曲』などをiPodで聞いてクールダウンさせるように試みる。メシアンが収容所の中で作曲したといういわくつきの曲。無限に上昇してゆくような錯覚を感じさせるところが現代音楽ばかり聞いていた大学生時代に好きだった。今聞いてもそこは素晴らしいと思うし、つい雑事を忘れて仕事がはかどる。しかし多少弛緩した感じの部分になると、現金なもので雑念が戻ってきて、仕事が進まなくなる。
こうした自分に活を入れる「カード」を、音楽を含め、できの善し悪しはあるものの、幾つか持てたのは、努力の結果だったようにも思うが、もしかしたら単に幸運だったかもしれない、それが出来たおかげで、なんとか仕事も続けてこられた。フェイドアウトしていってしまった同業者達は、そこでミスったのではないかと思う。
アイディアが枯れてしまう辛さは誰にでもあるはずだ。抑鬱も逃れがたくたちはだかる。そこを(実力ではなく)気分的にいかに乗り越えられるか。才能の枯渇にとりあえず眼をつぶって、いかにしぶとく書き続けられるか。困難を乗り越えるための気晴らしをいかに持ち得るか。
パスカルは自分の根源的な深刻さから眼を避けることを慰撫と呼んで軽蔑したが、現世で生き続けるためには世の終わりのために書かれた音楽を新聞記事を書くために使う必要もあったりする(と書いてため息ひとつw)
タッシはトルコ人のバイオリニストの名だと思い込んでいたが、検索してみたら個人名ではなくアンサンブル名? ピアノはゼルキンなのかな。
 

電池

 投稿者:武田徹  投稿日:2009年 5月14日(木)22時38分26秒
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  仕事のキャリアも長くなって「昔は〜〜」的な話をして無意識のうちに若い人を圧迫しているようで気をつけているのだが、昔はオアシスポケット系の携帯ワープロ専用機だけでなく、パソコンが単三電池で動いたのだ。私はThinkPadの230Cとかいうモデルを使っていたが、それは普段はリチウム駆動だったけれど、緊急時には単三X8本で1時間弱ぐらい動いた。今のようにコンセントを用意したスポットがなかったので出先で時々重宝した。今より忙しくて移動中に処理しなければならない原稿やメールが多かったこともある。
 しかしそのモデルを最後に単三駆動機とは出会えなくなっていた。ところがまた単三駆動可能なパソコンが出るらしい。
http://www.norhtec.com/products/gecko/index.html
 やればできる、というか最近の駆動時間延長競争の中では省電力技術も進んだので、実はどこもメーカー機種でも単三電池駆動でもそこそこ動くようになっていたのではないか。長生きしていると時代が巡って自分の嗜好に合ってくる。不思議な感じ。止まった時計が一日に二度は正確な時間を指す感じとでも言おうか。
でも個人的にはThinkPadが乾電池パックを出して欲しい。IBMだと品質管理が厳しいので電圧が安定しにくい単三電池は充電池容量が十分になったと判断して避けたがっただろうがlenovoだったら逆にこだわりなしに出せるのではないか。
 

マスク

 投稿者:武田徹  投稿日:2009年 5月 9日(土)07時06分47秒
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  ようやく「国際標準」に達した?新型インフル状況。土曜朝のCXだが感染者の搬入された成田赤十字病院前で立ちレポしたキャスターはマスクをしていた。上司の指示か、少なくとも承認あってのことだろう。負圧設備付き病室に患者が搬入されているのに、報道関係者が感染予防上の必然性のない姿を示してどうすると批判したい。

今週はGW明けで実質2日だけしかなかったが、ふだんから週後半が重い設定なので結構大変だった。金曜は資料を当日朝に多摩センターのツタヤで確保するという泥縄。教室で再生すると盛大なハウリングで、音を出せず。マイクをすべてオフにしても症状が出るので、どこかに隠しマイクでもあるのかと疑ったが(笑)、後から調べてみてPCのライン入力がミュートになっていないとある程度以上ボリュームをあげると内部ノイズでハウることを発見。後の祭りである。
すぐ返せると思ってツタヤは当日料金にしたが、帰り道で返し忘れにきづいて戻る。約1時間無駄に。だがそのおかげで雨が止んで大きな虹がニュータウンにかかるのを見られた。高台から虹のかかる街が見下ろせるところでちょうど信号待ちのタイミングになったのでケータイのカメラで撮影。あとで再生してみると虹の前景に細かい縦線が。うちのクルマはフロントウィンドウにも熱線が入っているのを忘れていた。ケータイのカメラはほぼパンフォーカスなのでピントがぼけずに写り込んでしまったのだ。
 

風邪撲滅

 投稿者:武田徹  投稿日:2009年 5月 6日(水)19時33分9秒
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  連休の最後2日だけ京都。生まれて初めて京都タワーに登ってみて京都駅ビル、グランビアホテル京都がいかに従来の建築の文法を破壊した建築物か改めて目視できた。実物にはさすがにモックじゃ分からない質感がある。というか、建築評論家ではないのできちんと学説を踏まえた評価は出来ないが、「よくつくったなぁ感」がさしあたりある。それがモックじゃ味わえない「本物感」の印象。コンペに出したのは、もしかしたら冗談のつもりだったんじゃないか、とふと思ってしまったりする。
かたや昭和の遺物のような建物だが、駅周辺施設が目視できるためだけでも京都タワーは存在価値がある。

さてその異形のホテルの中でテレビを見ているが、日本国が世界に誇るべく現在進めている政策は従来のソ連型などといわれた風邪とさほど症状の軽重もかわらず、タミフルも充分効いており、先進国ではさしあたり特段の危険性を示すと言うこともなく推移している風邪でも一切見逃さずに国内での発生を防ぎ、完全撲滅するものであるのではないかと思えてきた。以下、妄想?
確かに風邪は万病の元であり、その撲滅こそ国民の安全安心を推進すべき国家の目標として、これほど尊いものはない。医療費の大幅削減にも繋がる。マスメディアもそれに粛々と協力している。ちなみに側聞するところでは、新種の風邪の発生国からの訪問客とは一切面会しないと決める会社もあるようだ。911のときに一律出張禁止した企業が続出した国らしい対応。来日してもビジネスが出来ないとあれば、誰もが訪日の意志を放棄するだろう。この不況下に更にビジネスチャンスが失われ、貧乏になろうと仕方がないと考える。欲しがりません勝つまではの精神を復興させて安全安心を目指す素晴らしい挙国一致体制だ。
具体的には海外から帰国している過程で悪質の風邪をひいているかもしれないと疑われた旅行者は検疫所なり病院なりに留められ、風邪が本当に安全なものか確かめられるまで帰宅は許されない。万が一こうしたチェック網をくぐりぬけ、国内で万一風邪を発病させた海外旅行経験者も特別な医療施設で保護観察処分を受ける。こうした措置を進めるために一般の医療施設は危険な風邪かもしれないと疑わしい発熱者は受け容れず、激しい症状にあえて直面させて手遅れにならないうちに国に正しく申告させるように仕向けて国策に協力している。また疑わしい症状でも我慢できる場合は、申告すると隔離などの強硬な措置が取られることを示すことで、いい加減な気持ちで「最近風邪っぽくて」と言い訳して学校や会社を休むような軟弱さを国民精神から抹消させるべく求めるという高等な政治戦略も採用されている。
確かに新型の風邪はウィルスの遺伝子変異でいつ危険性を増すかはわからないが、実はその対策は日本一国で出来るものではない。遺伝子の監視や、汎用ワクチンの開発などで国際的な協力が望ましいが、ここでも日本は他国に頼らずあくまでも日本だけで完結させ、毅然として水際で風邪の輸入を留めて国土浄化を未来永劫に一貫させて徹底させる。
このまま政策が功を奏すれば日本は世界で初めて風邪(および風邪気味などと軟弱な言い訳をするような輩)を完全撲滅した国になるだろう。気力健康ともに一等国。なんと誇らしいことか。
 

1000円お持ち帰りします

 投稿者:武田徹  投稿日:2009年 4月29日(水)09時16分6秒
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  昭和の日だが大学は通常講義なので出勤。いろいろ雑事が多く忙しいと、原稿に集中できないので仕上げが遅くなる。連休前の締め切りふたつがまだ生煮えだ。
疲れてきてはいるが、やはり頼りになるのは朝の時間帯なので、原稿執筆ポイントを転々としながら出勤。
マクドナルド多摩センター通り店の、おそらく高校生バイトではないかと思われる、かわいらしい店員は1000円札を出したら、「1000円お持ち帰りします」と言った。お預かりしますというべきところ、「お持ち帰りしますか」の疑問の常套句と混乱してしまったのだろう。お釣りを払わずにお札をお持ち帰りしたら泥棒です(笑)。
だから心がこもっていないマニュアル接待のマックはダメだとオヤジくさい批判をするつもりはぜんぜんないのだけど、こういう言いまつがいは海外でもありえるのだろうか。言語学的にいえばパラダイムの選択とシンタクスの接続に逸脱的な交叉が生じている。こういう間違い方はそれぞれに個性的で楽しいが、少し引いた眼で共通性を抽出できれば、それは案外と文化的なのではないかと思ったりする。私はどの国にいってもマックにはいって、マックを基準点にしてファストフードサービスの変形ぶりから文化的傾向を確かめることを課題にしているが、店員の言い間違いパターンを調査するというのも面白いように思う。相当使用頻度を上げないといけないけれど。
 

分母を出せ

 投稿者:武田徹  投稿日:2009年 4月27日(月)16時51分20秒
編集済
  鳥インフルは数年前から講師を報道機関向けに呼んで話して貰ったり、自分でも記事を書いたりしてきたけれど、そんな過程においても「今、予想していること以外の結果になるのだろう」と予想していたので鳥インフルから豚インフルになっても驚かなかった。報道の仕方も政府与党の対応も悪い意味で予想通り。死者数や確認されている発病者数を報道するのではなくて、感染可能者数予測を報じろ、といいたい。致死率や発病率は感染の広がりの母数が分かって初めて意味のある数字になる。その作業を試みもせず、死者数ばかり報じるのは恐怖の宣伝以外のなにものでもない。
夕方には某所でCXだけ見たが、紹介されていた感染者数は数からして、発病者や発病者の家族で、検査の結果、感染が実際に確認されたひとではないかと思われる。感染者をそこに限ってしまうと感染者を分母とした発病率や致死率が高く計算されるので危険性が高くイメージされてしまう。発病と感染は違うのだという原則を守って、感染者数を出して、それを分母にするように出来ないものか。ソ連型インフルエンザの平均的な感染率や、H1N1に免疫があって発病しても症状が微弱だったり、感染したが発病しないひとの発生数は、過去の感染事例から疫学的にはざっくりした数は出るのではないか。あと人=人感染をしていて、感染者が既に北米大陸や欧州に広がっていても、この程度の発病者数で収まっていることからもそう強毒性ではないという推測は可能ではないか。そう考えていたずらに不安に駆られることなくしてようやく冷静な対応ができるのではないか。あとタミフルなどの耐性はないようなので、医療サービスの充分に提供できる地域の致死率や発病率の数字も出すと良い。
専門家は慎重で断定をさけたがるが、その間にマスメディアは恐怖の宣伝を広げてしまう。疫学者が公益的であろうとすればマスメディアが恐怖を伝播するのに対抗する速度でカウンタの情報を提供することも必要ではないか。
テレビをみてキオスクに置かれた新聞の一面見出しをみて、いずれも報道の仰々しさについつい憤慨してしまう。
午前中、礼拝だけ出て午後から取材に都心に出た。余裕を持って移動しすぎてエクセルシオルで二時間も時間をつぶすはめに。まとまったかたちで本が読めたのはいいが、環境管理型権力の行使かクーラーがきつくて体調を崩す。リクルートスーツ姿の女子が長い時間滞留している。就活お疲れさまだ。取材は、ビデオカメラの技術進化に「はあー」とため息が止まらなかった。
 

ひっぱたく

 投稿者:武田徹  投稿日:2009年 4月27日(月)06時45分14秒
編集済
  久しぶりに週末は山梨。桜はもう終わっていた。無理は承知とはいえ少し期待してしまったのだがダメだった。以前は仕事をまとめてするために郊外に退避していたが、最近はその余裕がない。特に先週は忙しかったので疲れをいやすために、端的にいって睡眠時間を確保するために来た感じ。ひたすら寝る。これでは本など書けようはずもない。
先週の多忙の原因だった行事の一つはネットラジオ収録だったが、公開前に少しだけ補足しておきたい。
レギュラー出演者の赤木智弘がデビュー論文『丸山真男をひっぱたきたい』で書いたのは丸山が招集されて軍にいたときに上等兵からなぐられたエピソードだったが、丸山は、もう一度、新左翼活動家にも「ひっぱたかれて」いる。大学紛争時に彼の研究室が無惨に荒らされた話がそれだ。赤木が「ひっぱたきたい」と言い出したとき、「希望は戦争」という毒に満ちたメッセージも伴っていたので、右傾化して戦争すら望むようになった愚かな若者という文脈で、既存左翼やシャミン勢力から批判されていたように思う。だが、戦後にあったもう一度の「ひっぱたき」を視野に入れて考えてみると、また別の解釈も出来ると思うのだ。
新左翼学生は日本の神話解体を目指していた丸山がいつのまにか大学という権威の神話の擁護者になっていると考えて「ひっぱたいた」。もちろん大学が議論によって問題解決を図る場であるとすれば、議論の場すら暴力で破壊してどうするという批判はありえる。「話せば分かる」可能性を諦めるべきではなかったとも。いってみればハーバマス的立場。
しかし、本当に大学は議論の場だったのか。これは赤木の批判とも通じるところがあって、赤木は弱者擁護の文脈が、常に若年フリーター層を排除して閉じていることを問題にしている。同じように、そこで「話せば分かる」、「議論で問題解決しましょう」「理性的でありましょう」と耳触りの良い言葉が唱えられつつ、その議論がきわめて閉じたものになっているとしたら、つまり議論で解決しましょうと言っている当の本人が議論を広げることを拒んでいるダブルバインド状況があるのだとしたら、事態は相当に厄介だ。
そうした内輪だけで議論をして良いと考えている既得権益集団は、仲間内で閉じているので当然、社会問題に対する解決能力も持ち得ない。社会と繋がっていないのだ。「他人の満足のためにするのが職業、自分の満足のためにするのが道楽」という漱石の古い言葉に従ってきびしい言い方をすれば、自分たちのためだけに言論活動をし、学問をする「道楽」集団になっている。実際、言論や大学の研究で世の中が変わったかというと、良い方向に変わったとは全く思えない。それは、大衆社会が「真実」や先端的研究の達成を理解しない愚か者だったからなのか。寅さんじゃないが、それをいっちゃあおしめえよなのだと思う。
そう考えれば神話解体、大学の相対化を極めようとした新左翼運動のベクトルには、誤解を恐れずに書けば、一理があったのだろう。その「一理」が後には大学解体から更に自己批判、自己否定、連合赤軍の総括にと直進してゆくエンジンとなった事実が現実の戦後史にはあったが、それが本当にその道筋しかない一本道だったのかを再検証をすべきだし(その作業をした本の著者を今回のネットラジオではやはり取り上げている)、そうした作業を通じて新左翼運動自体の神話解体、相対化をはかるべきだと思うが(デリダ的?)、少なくとも内側で閉じて、仲間内では楽しそうに議論して、知恵比べしているが、外とは議論しない共同体があれば、つまり話せば分かるといいながら話が通じない連中が相手であれば、もはやかなうことのない議論可能性だけに過度の信頼を置くのではなく、なにか「別」の方法に訴えて共同体を開かせる必要は一般論としてはあるだろう。
本人の認識はわからないが、赤木は先の論文はそんなことをしたのだと思っている。しかも題名では「ひっぱたいて」いるが、実際には戦略的な挑発に満ちた「言論戦」を巧みにしたところにこそ希望がある。まさに「希望は戦争」だったのだ。こうして言論戦で言論を脱構築したところは図らずもデリダ的でもある。世の中には似ても似つかぬものが似ている場合があるのだ。もっともデリダがフッサールを精密に読むことから脱構築へ踏みだしたのに対して、丸山の仕事なんて実は全然読んでいなかったという意味では、赤木の立ち位置はその時点では丸山をひっぱたいた軍の上等兵に近い。だが、だからこそ、丸山の仕事を読んだ上で、なおさら研究室を荒らさなければならないと思った新左翼の活動家と同じ地点に、学生運動の風が追い風として吹く状況がもはや存在しない平成の時点で、自分一人で身を置けたという逆説があることには注意したいと思う。というのも知性には陥穽があって仕入れてしまうと人は今度はそれを武器として使おうとし、知識量の多寡で競い、仕入れた知識を守るようになる。それが、アカデミズムがもはや閉じた共同体になっているのにそれを認めないで議論可能性を信じてみせるような詐称をさせるに至る元凶のひとつだ。
その逆説を乗り越えられる、本当の意味での「相対化」、「建設的な自己批判」を健康な常態とし続けられる知識人が多くいて欲しいが、残念ながら、それが出来るのはほんの一握りだろう。赤木にはそんな一握りの本当の知識人とお友だちになって欲しい。アカデミック指向のジャーナリズムの文脈でも、研究者にしてジャーナリストであり続ける困難な両立を目指す人をロールモデルとして欲しい。ライター仕事をしてゆくうえでハクをつけようと邪心をもって、下手くそな知識の仕入れ方、見せびらかし方をしていると、(ぼくのように?)自分がひっぱたきたくてしょうがなかった相手の立場にいつのまにか自分自身が立っていたというマンガを演じることにもなりかねない。そんなこんなを思いつつ、ラジオ収録に立ち会っていた。公開はまだなので、こう書いて公開に向けた作業に当たっているはずのひとにちょっぴりプレッシャーをかけながら(笑)、事前広告もしておく。
 

2016

 投稿者:武田徹  投稿日:2009年 4月17日(金)22時01分20秒
編集済
  おいおい、ちょっと前はみんなもっと反対していなかったっけか>2016年五輪東京誘致。世論の気配がすっかり変わってしまっているのに気付く。
カネをかけずにやるとかいっているが、国際空港の遠さなど東京の交通インフラの脆弱さがイベント時に露呈するのは明かで、この機会に整備しようという話になるにきまっているし、既に前倒しで豊洲周辺あたりは都市改造が進んでいる。それも住民があまりいない地域なので問題提起の声も聞こえないうちに、たまに訪ねるとずいぶんと開発が進んでしまっている感じだ。
東京の場合、人口は既に縮小均衡なので五輪のためのインフラ開発はこの都市の未来の常態において役に立たないだろう。もっと生活の実質的な豊かさ、民族的な多様性を実現する寛容さなどソフト面の充実を目指すべきだ。その意味で成長過程の第三世界の都市が五輪をステップボードにしてインフラ整備に拍車を掛けられるように五輪開催権を譲るのが大人の都市の振る舞いと言うことにならないのだろうか。
東京都との個人的な関わりで言えば鈴木知事時代の世界都市博を思い出す。あれは、確かに原案としては開発色が強くて困ったもので、青島都知事が中止したのだったが(もう少し時期が遅れて各種キャンペーンが始まっていたら、開発色が強くても世論は賛成していたかも知れない)、軌道修正して「都市問題博」的なものに出来ていれば、そして「後期近代」の都市の在り方についての共通認識を持つきっかけに出来ていれば、土地のバブル崩壊も多少はソフトランディングさせられていたかも知れないし、その後の失われた10年やITバブルの興亡も経験せずに済んでいたかも知れない。そして、そんな経緯を東京が辿っていれば、まさか2016年に五輪を誘致しようという話にもならなかったのではないか。100年に一度の経済危機とかいう前に20年ぐらいのスケールでいいので東京の歴史を省みてみたらどうだろう。
 

SH04A

 投稿者:武田徹  投稿日:2009年 4月17日(金)06時47分35秒
編集済
  かっこわるいので書かなかったが、ここ2ヶ月ぐらいドコモのSH04Aという端末を使っている。恥ずかしいというのは、スマートフォンを名乗りながらべたべたのiモード機であるインチキ端末だからだ。iモードの世界も時々見ておかないと若い人たちと話ができなくなる。で、この端末を手に入れてからはいろんなサイトを渡り歩いている。こういう努力をもうしなくなったときに、自分は本当に老いるんだろうと思う。
しかし、ストレス貯まるなぁ。この機体の最大の欠点は使い手を人間扱いしないことだ。たとえばカメラのシャッターは機体が切る。5Mで35mmカメラ相当で29mmという取材にも使いやすいスペックなのだが、液晶画面でシャッターを押しても切れるのは数秒後(すこしおおげさ)。笑顔モードとかになっていて、カメラの方がシャッターを切るタイミングを探すためだ。建物相手でも律儀に笑顔を探すから呆れる。液晶画面ではなく、ハードのボタンでシャッターを切り、笑顔モードを解除して、更にフォーカスをマニュアルにするとある程度切れるタイミングが多少は意のままになるが、なんということか、その設定が保持されない。急いで端末を取り出してシャッターを切る場合にまた笑顔モードになってしまうのだ。もちろんシャッター音はオフにできない。 使い手を信じるということがまったくない。結果として主体性を電話機に奪われて若い子たちは人間失格してゆく。

チョートク日記で出てくるミノックスを持つ「武田さん」というのはぼくのことではないが、ぼくもミノックスを常時形態していたことがあった。いつでも、なにかあったら記録できると言うことがすごく大事に思っていたし、今もそうだからケータイのカメラがダメだとがっかりするのだ。ミノックスで面白いのは、ベトナム特派員だった頃のハルバスタムはミノックスを使ったいたという記述がある。よほどのことでないかぎり、8X11mmのネガから起こした写真は誌面で使えないので、自分のメモ用だったのか。パソコンを携帯しなくて良かった頃の従軍取材なのでニコンとかライカを持っていっても良かっただろうに。現像もたいへんだったろうと思ったが、もしかしたら動画系のカメラマンも現地でフィルム現像をしていてその現像システムに乗せられたりしたのだろうか。
 

イラン女性に文学界新人賞

 投稿者:武田徹  投稿日:2009年 4月15日(水)05時07分57秒
編集済
  イラン女性に文学界新人賞が与えられたとニュースで見る。叡智ある人が日本語で考え、表現することを手放していないということでは、水村美苗『日本語が亡びるとき』とは別の流れに一見見えるのだけれどどうなのか。このニュースに限定して喜びつつも、日本語一般にかんして奢らずにいたいもの。日本のアニメが海外で売れると手放しで喜んでいるおめでたいひとが官僚から市井の一般人まで未だに多くいる国では。  

nokiaとやわらか土手

 投稿者:武田徹  投稿日:2009年 4月14日(火)13時09分52秒
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  WEBによるとhttp://www.shimoken-works.com/?p=3426ソフトバンク回線で使っているNokia端末が意図せずに、勝手に、しかも頻繁に再起動してしまうのだとか。いつかはNokiaを使ってみたいと思っている(日本撤退後なので使うとしても海外版になってしまうのだが)身としては気になるが、報告を読んでいるとNokia端末側の問題というよりも回線側の状態との不適応のような印象がある。回線が閾値を越えてワールドスタンダードの機体では再起動するような状態になっているのか。
回線設備投資は消費者からは見えにくい。特に新規ユーザにとっては未知の領域だ。となると純増目指して広告に特に力を入れているキャリアは、そのぶん、整備が後回しになりがちな傾向もあるのかもしれない。
そのあたり、社会にとってどのようなケータイ電話が必要かを考えるか、会社にとってどのような売り方が必要かを考えるかという、いわゆる社会・会社問題、公共性・共同性問題でもあるのだが。あくまでも外見的な印象だけれど(あと切り込み隊長が指摘していた財務的な問題はどうなんだろう、ボーダフォン買ったときの持ち出し・・・・)ソフトバンクは相当に無理をしている印象があるが大丈夫なのだろうか。個人的にはバンクの回線も持っているが、持ち出すのが最近はドコモだけになっている。新学期でケータイ関連の授業をしなくてはならず、そんな話題を出すわけではないのだけれど、やはり若い世代の使い方に土地勘が働かないとピントがずれてしまうので、この時期はiモード強化週間なのだ。SIMロックや料金体系などドコモが思想的に正しい会社だとも決していえないとは思うのだけれど。
 

音楽は自由にする

 投稿者:武田徹  投稿日:2009年 4月 7日(火)10時01分9秒
編集済
  坂本龍一のことを書いた後に本屋で書評候補本を探していて彼の『音楽は自由にする』をみつけて買ってみる。40歳以下の著者を捜していたので目的からほど遠いのだけど。
『エンジン』の鈴木さんがインタビューして作っていた。エンジンは読んでいないので知らなかったが連載していたのだろう。タイトルには共感がある。ぼくが多少は自由に生きて来れたとしたらそこに音楽の力は大きい。しかし、それが)「真理があなたがた自由にする」(ヨハネ福音書)に倣って国会図書館が戦後に掲げたスローガン「真理が我等を自由にする」に起因し、更にはアウシュビッツの「労働は自由にする」もおそらくは斜に眺めた書名だろうと察知できる人間はいまの日本でまだ多数派でありえるのかと少し気になる。加齢と共に自分の常識の範囲が徐々に狭まってゆく経験をするのは、前の世代でも同じだったのだろうか。近場で言うと少し前の高度成長期の日本社会はどうだったのか、少し遠目では、同じサイズの洋服を三世代使い回せることが階級的安定の象徴であり、一種の自慢だったという近代イギリスでもそうだったのだろうか、更にはウェーバー的な合法的支配に至らない伝統的支配の時代であればどうだったか。
もう一冊、『日本の電子音楽』。大百科事典の一冊のような大作だ。こういうのは買えるうちに買っておかないと市場からなくなるのでつい買い込んでしまう。年度末に研究室の書棚を増やしてもらえたのでで節制が緩んでいる。佐野山寛太『メディア写真論』も買いたかったが、過去に買ったことがあったような気がしたのでかろうじて控えた。手に入る内にとりあえず買っておく買い方できちんと読んでいないと記憶が曖昧で重複しちゃうことがないわけではないのだ。昔はたとえ読んでいなくても買った本は忘れなかったが、最近はだいぶあぶなくなった。増えすぎた、ということもあるのだけれど。
 

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