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2011年も終わる。
年賀状のかなりの部分をメールで済ませるようになって一年の間に新しくメールをいただいたかたのアドレスを過去に遡って拾ってゆく。ああ、こんなこともあったなと、既に失われかけていた記憶が蘇る。もらいっぱなしになっていた依頼のメールを発見してももう後の祭りだ。
メールでも歴然だ。あの日を境に本数が激変している。刻々と状況を教えてくれる記者の人とイスタンブールからやりとりしたメールもあって生々しい。事故があってからにわか原発通になったかのような市民運動家が多くて幻滅したが、ぼくは原子力を取材していた経験があったので全電源喪失と冷却水喪失が何を招くか、ありえるその結果の「幅」についてある程度予想できていた。で、もっとひどいことになることも覚悟しつつ、それでもイスタンブールから帰ってきたのだ、2号機の格納容器の圧が抜けた朝に。『核論』の作者の責任として帰らなければならないと思ったし、両親と学生たちと元学生のためにも、ね。『私たちはー』の増補部分にまとめてもらったことに嘘はない。その頃の気持ちを書き残しているメールもあって読み返して今更ながらいろんな思いがよぎる。
当時繰り返されていた枝野官房の「ただちに健康に被害はない」は悪評高いが、「ただちに」が意味を持つ時間スケールの中で、事故に対応できる社会インフラを守りつつ、リスク総量をできるだけ減らしながら、もしももっと危ない側に触れて「ただちに影響が出る」危険が生じたときにはそれに対応できる体制が取れないものかと思い、既にあまり頼りにならない感じだったが東電の出している原子炉や格納容器の圧と温度をチェックしながら原稿を書いたり、大学の公式ツイッターで学生向けの情報を出したりしていた。もし国民の多くがもっと原子力災害について知っていたら、心と避難の準備ができていれば、全く違う戦略もありえただろう。しかし残念ながらその備えはなかったのだ。メールのやりとりを見て、改めて記事を次々に依頼に応えて書いていた当時のことを思い出す。そこまで粉骨砕身がんばっても、『核論』刊行当初よりは多少は影響力も持てたかもしれないが、微々たるものでしかなかったが。
避難方式について大学で議論になった3月末の時点で、これからは積分線量が問題になる、そうメールで書いていた。案の定、その後、状況は変わる。「放射線が来る」と不安を煽ってあんなに不評だったAERAの表紙すら実は正しかったと見直す人が出て来る始末だ。これも「ただちに」問題のヴァリエイションだろう。かつては、一度制御を失えばとんでもないことになる原発を受け入れつつ、「ただちに」事故は起きないだろうと根拠無く信じて安心して暮らしていたのが、事故を契機にそうもいかなくなり、積分して影響を検討すべき線量に対しても危険につながるから「ただちに」避けるべきだと言い始める。確かに不安を避けられるならそれにこしたことはないのだけれど、その際に考えて置かなければならないことも…という議論を省略しようする大きな変化のうねりのなかで、新しい言論戦をはじめなければならないと思っていた頃、腰を痛めて一時撤退を余儀なくされたが、新年からは心機一転がんばらなければ。
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