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桐島洋子『淋しいアメリカ人』を読む。取材での訪米ではなく住んでみたところは本格的な参与観察的で、実際、内容の密度、強度は好奇心旺盛な著者の資質や取材力、表現力だけでなく、対象となった時間空間の広がりを濃縮した結果でもあるのだろう。少なくともこの作品に結晶する範囲では著車が「恋愛をしないひと」であるところも参与観察者にふさわしい。
フリーペーパーの三行広告欄を使った情報収集方法は、今にして思えば不特定多数の匿名者を相手どる取材方法としてネット時代を先駆けていたようでもある。ネット時代には実名証言を基本とすることで裏とりの可能性を担保して検証反証に道を開く既存のジャーナリズムの方法が通用しなくなる。そんな条件でいかにジャーナリズムの信頼性を維持するか。それは僕が「デジタル社会論」で議題化した通り。
そんな観点から読み返すと、ここで扱われている「淋しさ」は60年代の価値観変動期を経た特殊アメリカ社会史的な寂しさというよりも不特定多数でいることを個人化の過程でしいられた近代化、情報化過程で生じる、より普遍的な世界史的な寂しさの萌芽だったのかもしれない。不特定多数の海原から全く偶然の糸をたぐるようにして忽然と現れ、刹那の接触をしてまたどこかへと消えて行く新しいアメリカ人を相手にしている著者もどこか淋しい感じだし、それは今の私達の寂しさを先駆けていたようのも感じてしまうのだ。出会いの偶有性を巡る描写として読むことがこの作品の価値を今に蘇らせる。
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